「大森海岸」は、京急本線の駅名ですが、国道15号が走り、海は近いけれど“海岸”というほどでもないと感じている方が多いかも知れませんね。
東京オリンピックを控えた昭和30年代の埋め立て整備など、大森は時間と共にその姿を変えて来ました。
「大森海岸」の歴史についてみていきましょう。
■平和島の「海苔のふるさと館」をみてみると…
大森海岸は、埋め立てが行われるまでは、海苔の養殖が盛んだった歴史を持っています。
明治に駅ができた頃には、地名「八幡駅」が駅名でしたが、その後、都内から最も近い海水浴場として海岸を訪れる人も増え、「海岸駅」となり、1933年(昭和8年)には、「大森海岸駅」になりました。
しかし、東京オリンピックに向けて東京湾の埋め立てが一気に進み、1962年に一斉に漁業権が放棄されました。
日本で初めて海苔の養殖が行われ、江戸時代に大森から各地にその技術が広まったと言われています。
海苔養殖業の面影は、平和島に作られた「海苔のふるさと館」に残されています。
いまではここにしかない、当時使われていた海苔養殖の道具が、文化財として保存され、大森の原風景に思いを寄せる事ができます。
海苔の養殖に適した遠浅で穏やかな海は、埋め立て地となり、高度経済成長を支える役回りを果たしてきたのだなあ…と、感慨深いですね。
■吉原の原点となる花街がルーツにある?
大森には「鈴ヶ森」という地名が残されていますが、罪人の仕置場だけでなく、お茶屋などが並ぶ「花街」としての歴史があります。
江戸時代、梅屋敷周辺は見事な梅林と休憩所があり、今で言う「リゾート地」のような土地柄でした。
そんな鈴ヶ森では、女性に相手をさせる“おやすみ処”が作られたのをきっかけに、お茶屋のメッカとなっていきました。
後に、吉原に江戸幕府公認の遊郭「吉原」が作られましたが、その原点となったと言われています。
昭和10年~昭和16年頃には、芸姑さんが400名近くもいて、その流れをくむ料亭・茶屋・置屋が南大井から大森本町にかけて並んでいました。
■広大な敷地が大きなマンションなどになり発展
交通網が発達した現代では、大森海岸は、「郊外のリゾート地」というより、「どこにでもアクセスの良い便利な街」といった印象を受けます。
料亭などの広大な敷地がマンションの敷地として活用され、都会的な街並みを作ったとも言えます。